一、臼杵石仏


謎を秘める国宝臼杵石仏

『石仏は何を語るか』
初版発行 昭和六十一年
宇佐美昇 著

はじめに(抜粋)

明治四十三年、京都帝国大学教授理学博士小川琢治氏(ノーベル賞受賞の湯川秀樹博士の父君)は中国の文化視察を行い、その土産話の中で「中国の磨崖仏はすばらしく、日本では絶対に拝むことのできるものではない」等々を京大の学生に講義した。その学生の中に臼杵市出身で彫刻家を志望、東京の美術学校に学んでいる日名子実三氏の友人がいた。彼は日名子氏へ、彫刻を志すならば中国の磨崖仏を一見せよ、と告げた。すると、日名子氏は、磨崖仏は故郷臼杵の深田に行けばたくさんあると答えた。この事が小川博士の耳に入った。博士は半信半疑だったが、日名子氏は夏休みで帰省した時、博士から借りたカメラで深田石仏を撮り博士に見せた。博士はびっくり仰天し、実物を見るため臼杵に足を運んだのは大正二年八月のことであった。

しかし当時、石仏群は信仰の対象仏とはいえまったくの田舎で、しかも、昼なお暗く立ち入る人も少なかった藪だたみの中にあり、博士はその全部を見られる状態ではなかった。

その頃、私の父(宇佐美辰治は―昭和二十三年没)は信仰心篤く、石仏中央の山頂の山王山神社や石仏群へ毎日おまいりをしていた。その途中、偶然に鳥居のところで博士に出会い周辺の道案内を頼まれた。そこで一度家にカマ、ヨキなどをとりに帰り、藪を切り開きながら博士を案内した。博士は「すばらしい」を連発、感激しつつ父に向かって「あなたは今何をしていますか」と尋ねた。「私は、近くで散髪屋をしながら石仏周辺のおもりをさせていただき、朝晩参拝し暮らしています」と父は答えた。すると博士は「この石仏は必ず世に中に出ます。散髪屋さんは年をとり、目がうすくなるとお仕事が大変です。是非石仏を今まで通りおまもりしながら茶店でもしたらどうですか」と話した。

翌大正三年、博士は二度にわたり、県・市を通じて大分県地方の石仏の本格的な調査研究を行い(小川博士と面識のある父がこの時も案内させていただいた)、これを学会に報告。以降、臼杵石仏が脚光を浴びることになったのである。まさに石仏の夜明けである。
父辰治は小川博士のお言葉もあり、更にのちの臼杵町長甲斐文七氏や小田長平氏(父とともに日本山妙法寺山主故・藤井日達大上人を師と仰ぐ信者)からも小川博士と同様に、散髪屋を廃業して石仏の案内をしながら茶店を開くようにすすめられ、一大決心のすえ現在地(石仏観光センター所在地)に子やがけの住宅を建てた。


公式HP
http://sekibutsu.com/index.php





inserted by FC2 system